本日 69 人 - 昨日 41 人 - 累計 159367 人
ハンドベルくらぶ今年度終了!

hahaかふぇの活動は、
①子どもが華やかになる!
②子どもが体験できる!
③子どもが発表する!
この3つに焦点を当てて活動しています。

先日ハンドベルをほぼ毎週練習してきた子供たちの発表会がありました。
11月~練習を始め、5ヶ月に渡り、異学年の子供たちが一生懸命練習した成果は
垂水区役所で披露いたしました。
練習の時の子供たちの様子を思い出し、涙が出そうになりました。

本番の子供たちは本当に上手に皆で力を合わせて演奏していました。
観客の方々も、一緒に歌ってくれたほど上手でした。

目的に向かって努力し、輝いてキラキラしていた子供たちの姿を見る事が出来、私たちも本当に幸せです。

打ち上げも楽しかった!

子供が保護者だけではない社会の中で色んな体験が出来る事を
これからもやっていきたいと思っています!


二人の母の教え

2016年03月25日
私の実母は46歳で亡くなりました。私は23才でした。
母と暮らしたのはわずか数年。
手を握り看取りました。
最後まで母は、愛する男性を待っていました。
この事で私は、子供を大切に子供を一番に愛そう、と心に決めました。

お姑さんも私だけが看取りました。
夫と舅は、潮の満ち引きの時間を調べ、今行っても何もならないと話し合い決めたとの事、腑に落ちない私は夜中に車を走らせ、結局嫁の私だけがお姑さんを看取りました。
姑は、何も求めず、最期まで自己主張をせず受け入れてくださる人でした。
私なら嫁に看取られるより息子に看取られたい、って思うけれど、
お姑さんはきっと、そうは思わない。
この事から息子も娘も居る私は、母親の無償の愛を教えてもらいました。
子供を愛して、何も見返りなどは求めない、ただ愛するだけ。
深い深い母親の愛を教えて頂きました。

二人の母の最期の教え、心の奥深くにしっかりととどめたいと思います。
そしていつか私も子供たちに。

笑顔の連鎖(#^^#)

2016年03月23日
hahaかふぇの活動は子供たちの笑顔のため。
子供たちの後にいる、ママの笑顔のため。
そしてその光景を見る私たちのため。
笑顔を見るのを嫌がる人っているかな?
悲しい時、笑顔になんかなれないし、そういう雰囲気の中にも居たくない時って、
経験ある人も居るかもしれない。
でも、悲しい時や辛い時は無理やり笑顔にすると、
気持ちが楽になるらしい。
笑顔の効果ってすごい!
今日も子供たちの笑顔を見る私たちが笑顔になれる!
この幸せに感謝です(#^^#)

神戸新聞.jpg

私は一人っ子。その私が3人の子供の母親です。

兄弟ってどんな感じなんだろう?
想像がつかないです。

先日伯母が寝込んだ末、他界した事を知り、子供たちに伝えました。
「お母さんのお母さんは、46歳で亡くなって残された私は寂しい思いをしたけど、
長生きして看病してもらって寝込んだ末に亡くなるより、若いうちに居なくなる方が残された身には、悲しいけど良いのかもね・・・」と伝えた所、
長女が「私らは3人居るから、お母さんの看病も3人で変わり交代で出来るから、長生きしてくれた方が良い」って言ってくれました。

何だか涙が出るほどうれしかった。
兄弟って、良いものですね。

残業ママのためにファミサポ(託児)を続けています。
仕事を持つ私。昼間の託児は難しいのですが、夕方~なら出来るかな、と
残業ママのため、子供を預かっています。

今までの学童保育は、最高でも6時までに迎えに行かなくてはいけない、
残業すると、こちらに帰って来れるのは7時過ぎになる、困ったなぁと、
フルタイムで働くママの一言がきっかけでした。
急な残業とかもあるし、それじゃ私が預かろう!と思ったのです。

でも、4月~は19時までに!\(^o^)/
良かった!子供を預かれないのは寂しいけれど、安堵しました。

ママの困った!のすき間を埋める事、私が役に立てる事、
これからも地域で続けていきます。
世話焼きおばちゃんが、世話焼きおばあちゃんになる日まで(*^^)v

7年も活動をしていると、赤ちゃんだった子供が小学生になってます。
ヨチヨチ歩きだった子供が、挨拶をしてくれたり、恥ずかしそうに手を振り返してくれたり。
hahaかふぇに来てる子供たちや、ママを知ってる子供たちは、
やっぱり気にかけてるなぁと思います。
会うと姿が見えなくなるまで見送ってる私がいる。
気になるんですよね。
先日、夜9時位に中学3年生が歩いてて、きつい口調で
「どうしたん!?どこに行くの?」って聞いたら
「塾の帰り」って驚いて返事をしてくれました。
こういう世話焼きおばちゃん、地域にいっぱい居てくれたら
子育てって本当に楽になるんです!
賛同くださるママ募集中!

社宅のママ

2016年03月17日
地域に大きな社宅があるんです。
そのママ達の事情を知ったのが8年前。
それは、
①夫の転勤で引っ越ししなくてはいけない。
②知人が居ない土地。
③実家にもあまり帰れない。
目からウロコの事情でした。
転勤辞令が出るのは、1ヶ月ほど前。
転勤先には知人も居ない。社宅内は、部署も違う方々のため誰が誰やらわからない。
交通費の事があって、実家には年に数回帰る程度。

そんな事情、本当に知らなかった!
頼れる人がそばに居ない、夫は帰宅も遅い。
長女を出産してすぐ、母が亡くなった私を思い出しました。

この事がきっかけで、7年前に育児サークルを立ち上げたんです。
当初のママ達は、もうほとんど社宅には居ません。
みんな社宅の10年しばり(10年したらでなくちゃいけない)や、
転勤で遠い所に行ったママも。
会えないなぁと思っていたら!

防災お菓子リュックが、東京からオファが!
全国に広めたいと思っていたけど、こんなに早く日本の首都に行けるなんて!
みんなに会える!

豚まん作
当時の写真(#^^#)

ママの力は最大!

2016年03月16日
子供の笑顔はママの力が最大の栄養!

近所の世話焼きおばちゃんが子供に目を配り世話をしても
ママに勝ることは到底できない。
そう思って活動をしています。

私も3人の子どもを育ててきて、子供を愛しているけれど
どうやって表現したらいいんだろうって、時々考えました。
仕事やいろんなことがいっぱいいっぱいで、余裕の無い時は
怒ってしまったことも多々あるし。
そんな夜は、なんでしょうもないことであんなに怒ってしまったんだろう、って
自分を責めて後悔した日も、何日もありました。
母親だって完璧じゃない。
それで良い。
hahaかふぇの活動が、ママと子供たちの笑顔に少しでも役に立てれば!
その思いです。

hahaかふぇ 代表 西谷真弓

防災お菓子リュックを考案したきっかけ

震災に備えるって、後回しにししてしまう私が居ます。
でもしなければいけないってことはわかってる。
私は楽しい事しかできない性格。
hahaかふぇの活動を7年継続してこれたのは、子ども達の笑顔を見るのが楽しくて、嬉しくて!だから今も継続しています。

hahaかふぇの原動力は子ども達の笑顔!

私の子ども時代に癒されたお菓子で、子ども達を守る防災お菓子リュックを考案しました。
何事もなければ、おやつで美味しく食べる事が出来る非常食。
生きている喜び、震災が無い事に感謝できる防災お菓子リュック。
ママの愛が子ども達を笑顔にできる!


hahaかふぇ 代表 西谷真弓

震災後すぐ、移動駄菓子屋をしていたころの写真が出てきました!

なぜ、移動駄菓子屋をしようと思ったのか?は、
こちらのブログで書いた通りです。
明治生まれの祖母に育てられた私は、善い行いをしていれば善い事が起きる。
この祖母の言葉を信じて生きてきました。
それなのに、20年前の阪神淡路大震災で亡くなった方々の事を思うと、あまりにも悔しくて、どうしてこんなにたくさんの方が亡くなら無ければ行けないのか!という悲しみとも絶望とも言えない思いが胸をいっぱいにしました。

大人もこんなに大変なのに、子ども達は今、どうしているんだろう。

子ども達を笑顔にしたい!
被災した子ども達に耐える力を持てるようなことをしてあげたい!と、
移動駄菓子屋を始めたのです。
子ども達の笑顔のために駄菓子を選んだのは、私が子どもの頃、100円玉を握りしめ、
悩んで悩んで選んだ駄菓子を大切に食べる事が唯一、満たされた時間だったから。
自分の経験からです。

震災後20年を経て、いつ起きるかわからない地震に備え、子ども達を守るために
ママ達に子どもの事を守ってもらいたい!という気持ちから、防災お菓子リュック作りを考案しました。
ママが作った防災お菓子リュックは、万が一の時は子どもの非常食としてお腹を満たしてくれます。子ども達はお菓子が大好きです。
何事もなければ、ママと子どもと一緒におやつの時間に食べて、
震災が起こらなかった感謝の気持ちと、生きている喜びを感じて欲しい。
この思いに、賛同くださるママ達と一緒に防災お菓子リュックを作りたい!

okashi 1

okashi 3  okashi 2

防災お菓子リュック作りを決意するまで

2016年3月11日、この日の決意としてお知らせいたします。

hahaかふぇは子ども達の笑顔のために活動をしています。
この度、子ども達がどんな時でも笑顔で居られる避難用品を、
阪神淡路大震災を体験した母親の私たちだからこそ広めたいと思い、
防災お菓子リュックを企画いたしました。

防災お菓子リュック作りの内容は
阪神大震災を体験した私たちは防災関連用品を購入するとき等は、悲壮な思いで準備します。
それを払拭し、ワークスタイルでお菓子リュックを制作し、万が一の時は子どもが背負って避難できる防災用品として備えます。

どんな成果が期待されるか
災害に対する恐怖、不安な気持ちの軽減。万が一被災者となった際の心のモチベーションを上げる。

hahaかふぇの思い
阪神淡路大震災を体験した神戸市民は、震災の恐ろしさを嫌というほど体験してきました。
何らかの形でほとんどの市民が被災者です。
その時に感じたことは、子ども達の事を考える余裕が大人にないという事でした。
守らなければいけない子ども達を、一番後回しにしてしまう避難生活。ですがどうすることも出来ないもどかしさ。
その経験から、防災お菓子リュック作りを企画しました。
震災から20年、震災を経験した神戸市の母親だからこそできる事を、ずっと模索してきました。
私たち母親が、災害に備え、非常食等の準備をしなければいけない、という事は自覚しております。
ですが、20年前の被災した記憶が蘇り、万が一の備えを怠っている市民も多い現状。
スタッフの中にも、半数以上は備えを怠っています。
それはなぜか?それは、準備の際に記憶がよみがえり不安な気持ちになるからです。
震災イコール、「死」をイメージしてしまうからです。
災害に対して無力な自分を体験しているからです。
20年経った今、それではいけない。
不安な気持ちを軽減できる活動を開始したい!と常々思っておりました。
震災を体験した私たちだからこそ発信できる、子ども達を守るための防災用品として、お菓子リュック作りを考案しました。
非常食の乾パン等は災害のイメージと直結し、準備する際は、最悪の状態を予想して準備します。
ですが、このお菓子リュックは、何事もなければ、子ども達のおやつとして食べる事で、非常食のイメージではない、例え方は適切ではありませんが、楽しいおやつの時間に食べる事で、災害が起きなかった感謝の気持ちや、生きている事の喜びを同時に、子ども達が感じる事へと気持ちを転換することが出来ます。
災害時は弱者が一番大きな被害者となります。
弱者の子ども達を守る余裕の無い避難生活を経験してきた私たちだからこそ、子ども達を守るための一助となる、防災お菓子リュック作りを広めていきたい。
私たち母親だからこそ広めたい事業です。
このような気持ちを持つ母親は全国に居るはずです。
その母親たちを対象としてワークショップを展開していくことで、災害に対する興味を持たせ、万が一の際は子どもを守る非常食として全国に展開していきたい所存です。

2016年3月11日 hahaかふぇ 代表 西谷真弓

3月11日

2016年03月11日
東日本大震災から5年。
あの日、垂水区に居た私はメンバーと一緒に津波の情報を知りました。
まさか、あんなに大きな津波だとは想像もせず、テレビの画像で家が流され、
一面が海のような光景を、現実のものだという事を理解しがたく呆然と眺めていました。
5年経ったから、20年経ったから、悲しみや辛い事が癒えるわけではない。
でも生きている限りは、生きていかなくては行けない。

大切な人を亡くした時、自分の力で立ち直ら無ければ、誰も何もしてくれない。
甘えん坊だった私が、シッカリと現実を見据えて生きていかなくては、と覚悟したのは20代。母が亡くなったその日から過去を思い出すことをせず、いま現在、そして未来に目を向け生きてきた気がします。
でも過去に目を向け、未来のある子ども達に何か出来る事、まだまだある。
未来ある子ども達のために、経験のある私たちが出来る事をこれからも実践していきたいと思います。

2016年3月11日
hahaかふぇ 代表 西谷真弓

震災について

2016年03月09日
20年前の阪神淡路大震災で私は、それまでの価値観が覆されました。
善い行いをしていれば善いことが起こる。
明治生まれの祖母の口癖は、私の信念でした。
でも阪神淡路大震災では、たくさんの方が亡くなられ、亡くなった状況を知るたびに、この方たちがいったい何をしたから、こんな目にあうんだ。
どうしてこんなに悲しいことが起きなくちゃいけないんだと、
それまでの信念がグラグラと覆されました。
どこにもこの怒りを持って行き場が無く、無力な自分を思い知らされました。

大人も大変なのに、子ども達はどうしているんだろう。
何か私にできる事、あるのでは?と、
軽トラックにお菓子を積んで、移動駄菓子屋を気付けば毎日していました。
子ども達の笑顔が見れたら!と、その思いが私の行動力でした。
厳寒の中、団地や路地で1個10円~の移動駄菓子屋を開いたのは、お菓子を選ぶ子ども達の笑顔がとてもとても可愛くて、その笑顔が私の原動力の源でした。

子ども達の笑顔を見るために駄菓子を選んだのは、幼少時の私の唯一の楽しみが駄菓子屋さんでお菓子を選んで、大切に食べる事だったのです。
100円玉を握りしめ、悩んで悩んで選んだお菓子を食べている時は、両親の居ない寂しさを忘れることが出来ました。この思いがあったから、軽トラでの移動駄菓子屋で子ども達を笑顔にしよう!と思ったんです。
移動駄菓子屋は、怖い思いもしました。「誰のシマで商売しとんや!」と、怖い方々に取り囲まれたこともありました。でもやめずに続けたのは、子どもの笑顔を見たいから。
その思いが20年経った今、再び燃焼しています。

2016年3月  
hahaかふぇ 代表 西谷真弓